ele-king column より転載

 第一回ではアンビエント・ミュージックの「在り方」が、人体における呼吸の「在り方」と同じであるという話をした。今回は「音」そのもののなかに呼吸的な音が含まれているという話をしたい。

 僕はとくに音楽の作品化のプロセスにおいて、いつも「耳で追う音」というものを意識して音楽を作っている。これは10年以上前に〈spekk〉のオーナー杉本直人さんから頂いた、いまも僕の音楽に多大な影響を及ぼしている言霊である。音楽における「耳で追う音」、それは瞑想における呼気の音の役割を持っている。

 瞑想やヨーガにおける最終的な到達点は、あらゆる雑念や苦悩の原因である思考を止滅することにある。平静、人間は「思考」が生み出す幻の中に生きている。すなわち過去を憂うことと未来を案じることという思考時間の長さが、自己の内部に苦悩という実在しない幻を作り出している。思考がなければ、人間は現在のみに生きることを実現し、あらゆる苦悩から解放され、ただただ「現在」の驚きと喜びのなかに生きることができる。瞑想や芸術、あるいは武道やスポーツなどの、種の保存とは無縁の「文化」と呼ばれるあらゆる活動において、思考の止滅は究極の集中状態として求められるべきものであると同時に、それを実現した瞬間に、人間は最大限の能力を発揮する。俗に言う「ゾーン」に入るというやつだ。

 しかし、僕のような未熟な輩は常にそんな状態にあることはできない。瞑想やヨーガといった東洋的な文化においては、思考を止滅した状態に至るための方法として、呼気の音に全ての意識を注ぐことで、あらゆる感覚や記憶の時間軸を「現在」という瞬間に収束させていくという方法論を用いることで思考の止滅を志すことが多い。こういった呼気の音のような音がアンビエント・ミュージックにはあり、僕はその音を、とくに作曲・編集の段階において、「耳で追う音」として意識し、どこにその音があるのかということに気を配っている。音楽に耳を傾け、すべての雑念から解放され、その音楽の世界に埋没するためには、瞑想の入り口としての呼気の音のような役割を担う音が重要なのだ。

 その音というのはどういう音で、どのような意味を持っているのか。

 呼吸という弛緩と収縮の反復行為は身体と精神をつなぐ生命活動でもある。とくに「吸気」は身体と、「呼気」は精神との関わりが深い。音楽においては、定常状態の音が変化することによって、それが認識される。それと同様に、呼吸という「生理現象」が「行為」として随意的に変換されることによって、心身に対する「呼吸」の機能や意味に新たなものが付与される。吸気においては腹式呼吸という物理的な拡張によって諸臓器の位置および機能の定常状態に変化がもたらされる。呼気においては吸気によってもたらされた受動的な空気の流れに随意的な気道収縮による制御を加えることによって、そこに音を生じさせる。そのことが、呼吸と精神を連結させるトリガーになっている。

 この呼気音は、刻々と変化する気道粘膜という特殊な生体環境のなかで、随意的な収縮が加わって起こるものであり、その音は精神と呼吸との密接な関係性を内包した複雑な「揺らぎ」を伴って変化し続ける。この揺らぎの存在によって、人間はその音に意識を向け続けることが可能になる。音楽における「耳で追う音」も、この呼気音のごとく、「揺らぎ」を携えて常に変化し続ける音でなければならない。自分自身で詳しく解析したことはないが、この揺らぎは「1/fゆらぎ」と呼ばれる自然界に多く観察される揺らぎと同じものだろうと思っている。興味深いことは手作りのものがこの「1/fゆらぎ」を内包していて、それを機械で裁断すればするほどそのゆらぎが失われていくということだ。

 東洋思想では陰陽のバランスで物事を考えるが、とくに「芸術」という概念が生まれ定着した時期と、産業革命による近代化の時期とが同期しているということは偶然なことではない。産業革命は人間と機械との共存の歴史の黎明であり、同時に「芸術」の黎明でもあった。無論のこと議会制との関連性もあるが、それ以上に「芸術」という概念が創出された背景には、多くの人びとが産業革命によって農業を捨て、二次産業、三次産業へと生活を変えたことに対するアンチテーゼとしての役割を芸術が担いはじめたと僕は考えている。

 機械化や産業化、大量生産というものは、それが進めば進むほど製造物もその売り場も街も、どんどんと均質化されていくという法則を持つ。近年はこの日本においても、同じ店、同じ服、同じ食べ物がどこへ行っても売られるようになってきている。このことは生物学的には実に危機的なことであり、「多様性」という生物にとってもっとも重要とされる「揺らぎ」が喪失されて来ているということなのだ。近代化以降、とくにある種の変性意識に捕われることなく創作をしてきた芸術家たちは、それが意識的であれ無意識的であれ、本能的にその危惧を抱き、行き過ぎた機械化によって失われつつある「揺らぎ」を作品の中に内包させることで、社会における陰陽のバランスを取り戻して来た。

 無論のこと僕は機械や文明を全て否定するような懐古主義者ではない。しかし、現代は身体や精神はおろか、地球環境までもが明らかな悲鳴をあげ始めている。

 文明による自然の摂理からの逸脱は、人間の生体リズムを調節する自律神経を乱す。アレルギー疾患も含め、現代病と呼ばれるほとんどの病は根本的には自律神経失調症であり、その病の治療にはそのほとんどが症状を取るだけの「対症療法」である西洋医学は無力に近い。現代病というものは人間の心身のリズムと、自然のリズムとのズレから生じるものであり、その根本治療には自然の力を用いる漢方薬や食事・芸術のような、自然のリズムを取り戻す医療にしかできないのだ。

 僕は医療においても音楽においても、人間が生活の中で美しさや美味しさを感じる能力というものを非常に重要視している。化学肥料を用いない有機栽培の野菜や、F1でない種子(在来種)から作られる野菜がおいしいと感じること、デジタル機器よりもアナログ機器の方が音が良いと感じるということはとても不思議なことであると共にとても重要なことだ。人類は化学肥料を使わないだけで何故おいしいのか。ということの意味をもっと真剣に考えなければならない時に来ている。

 欲求や快楽には良いものと悪いものがあり、それを識別するには「落ち着き」が重要であると多くの先人が語っているが、食べ物や芸術の背景に、機械や大量生産があることを感じ取る能力を人間は備えているのだ。もちろん、文明や機械は人間の生活に不可欠なのだが、その規模の問題は現在の人類が直面している最大の問題と言って良いだろう。人類は身体感覚や美意識を介して、それを考えていかなければならない。機械化をすればするほど、資本家の利益が増え、労働賃金が下がるというのが資本主義の悪い点でもある。その是正は消費者の身体感覚に根ざした能動的な選択以外に手段はない。

 ジョン・ケージがニューヨークの大通り沿いに住んでいて、「車の騒音も音楽のように楽しい」と言っていた話はよくされる話だが、果たしていまの車のエンジンの騒音を聴いてもそう感じるのかどうか。ということをいまは亡きジョン・ケージ先生に聞いてみたいと、ずっと思っている。少なくとも僕の耳には、いまの無機質なブレのないエンジン音は音楽には聴こえない。彼が音楽として聴いていたエンジン音は、いまのエンジンとは違う。エンジン技術の黎明期、エンジン音に宿る技術者たちの思いも違っただろうし、いまほど機械化されていなかったものには、より多くのブレ(揺らぎ)が潜在していた。僕が勤めていた病院の当直室にはふたつの新旧の換気扇があって、ひとつはボロくて止まったり動いたり変な音を立てたりするのだが、新しい方は常に一定で何か無味乾燥な音に聞こえるので、僕はいつも新しい換気扇を消して、古くてぼろい換気扇の変化を楽しんでいた。

 機械化や産業化の加速はその燃料を供給している消費者が変わらなければ止められない。農業自体が自然破壊のはじまりだが、後先を顧みずに、化学肥料を散蒔き、遺伝子を組み替え、いまや我々の多くは子孫を残せない均一化されたF1種子の作物を食べて生きている。行き過ぎた文明が作り出すものは、すでに人間の感覚や身体がはっきりと感じ取れるほどにまで変化してしまった。これはそれを作り出した企業の責任ではなく、それを消費している消費者に責任があるのだ。医療においても西洋医学と共に東洋医学という叡智が適正利用されるには、国や医者に何を訴えても徒労に終る。医療を利用する側の能動的な医療の選択があれば、医療は必然的に変わっていく。

 アンビエント・ミュージックにおける「呼気の音」は、そういった人間社会が失っていく「揺らぎ」を携えた音であればあるほどそのリアリティを増していく。古今東西、人間は芸術の中にリアリティを求めてきた。「呼気の音」は、その音楽世界に辿り着くための道しるべでありながら、芸術の使命を携えた音なのだ。そういった音が、ヒーリング・ミュージックにはない。バックグラウンドに流していていても気にならないことは同じなのだが、いざじっくり聴いても耳で追う「呼気の音」になりうる「揺らぎ」すなわちリアリティがないために、思考の時間軸を縮めることが実現出来ず、辿り着く世界が異なってくるのだ。もちろんそれは意識を注がずに背後で流れていても、音楽に宿るリアリティの違いを人間は本能的に感じることができる。そこが両者の決定的な違いであると僕は思っている。